2021年1月6日

トニ・モリスン「青い眼がほしい」

第一印象から言うと、とても救いのない話。黒人の女の子がかわいそうな境遇の中、結局最後までかわいそうなままだったと言う話。

読み進めれば進めるほど、作品タイトルへの印象ががらりと変わった。最初の方では、「青い目がほしい」というのは黒人の女の子の純粋な願い事だと思っていたけど、最後まで読んでみると、青い目をした女の子が美しいという考えは、白人至上主義に染まった美の尺度であり、黒人にとってはアイデンティティーを傷つけられる呪いのような価値基準なのだ。そしてこの願望を持ってしまった女の子が、結局は落ちぶれた人生を歩むという、とても後味の悪い小説であった。

これは二重の意味で救いのない話である。1つは、青い眼がほしいと願った黒人の女の子が、みじめな人生を送ったという、個人としての救いのない話。もう一つは、この黒人の女の子を惨めにしているのは、白人も黒人も家族も他人も全てを含めて、彼女の周りのありとあらゆる人たちであったという、社会全体の救いのなさを描いた話という事。

この惨めな女の子の友人だった黒人の女の子たちも、小説の最後の方で、彼女の醜い人生の上に立って、自分たちは美しくなった、というような言葉を残している。この辺に、この小説のとてつもない救いのなさを感じる。白人と黒人の対立、というシンプルな図式であれば、まだ黒人同士で団結できる余地はあるので一応の救いのある話になりそう。ところがこの小説の場合はそんな単純な図式にはなっていない。まず1つは、黒人どうしてもヒエラルキーがあること。もう一つは、この惨めな黒人の女の子とその友達は、仲良くできるはずだったし、実際にも小説の前半では仲良くしているシーンがいくつかあった。ところが最後には、お互い見下して見下される関係になってしまった。そしてその見下して見下される関係を決定したものが「青い眼がほしい」という願望であった。

この願望を持つこと自体は、ただ純粋に美しくなりたいというところから来ていると考えて良いと思う。しかし友人の女の子からすると、彼女のこの願望は、自分たちの美の尺度が白人の文化に侵されていると言う、許しがたいものであったのだ。これは、願望を持った方、願望を嫌悪した方、どちらの言い分ももっともだと思える。だからこそ、片方の女の子が惨めな人生を送り、もう片方はそれを嘲笑いながら生きていくという結末には、読んでいて嫌な気分にさせられる。この友人が「青い眼がほしい」という願望によって、どれだけアイデンティティーを傷つけられたのかは、小説の前半のほうで出てくる、この友人が白人の女の子の人形をバラバラに分解してしまうという生々しい描写から痛いほどわかる。こういう人を見るにつけ、一概にこの友人のことを責めるような気分にはなれない。

人種差別というのは、アイデンティティーを守るために必要悪として存在するという側面はある。俗に「レイシスト」と呼ばれる一部の人だけが行うようなものあるという考えは、かなり危うい。だから時々は自分の身を振り返って、無意識に他者への差別や中傷を行っていないかと注意してみることが必要となるのである。

2021年1月5日

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODB255FJ0V21C20A2000000

冒頭の「架空の製造業の会社を作って、その会社のシステムがどれだけサイバー攻撃を受けるかをテストしてみた」って話が面白いと思った。架空の従業員のデータまで拵えたらしい。

 

昨日見た『燃えよデブゴン TOKYO MISSION』だが、あの映画でもう一つお気に入りのシーンがあった。映画の中で、緊急地震速報のアラームが鳴って、歌舞伎町らしき街を大地震が襲うのだが、緊急地震速報が流れる位の大地震にもかかわらず、周りの日本人がやけに冷静で淡々としているんだよ。この映画の中で、あの地震のシーンだけは、やたらリアリズムのある日本人像を描いていたのが、なんかおかしかった。

さらにどうでも良い話なんだが、映画の中で本物の緊急地震速報のアラームが流れるのって、初めて聞いたんだけど、他にこんなことをやってる映画ってあるんだろうか?「映画の中でこんなことをやって、もし本物の緊急地震速報と勘違いする人が現れたらどうするんだ!」って真面目に怒り出す人は出てこないのだろうか?

2021年1月4日

燃えよデブゴン TOKYO MISSION』観た。

最初っから最後まで爽快。カンフー映画を観たぜって実感が味わえる。

個人的に一番気に入ったアクションシーンが、築地市場ターレーに乗りながらのドニー・イェンのカンフーアクション。というより、ターレーとカンフーってこんなに相性いいのかよって思ったわ。

冒頭で、「この映画の東京タワーはCGで、実際とは異なります」という注意書きが出てきたが、実際と違う東京の風景はそこだけじゃねーぞ。歌舞伎町らしき街は実際の歌舞伎町じゃないし。築地市場が出てきたが、実際にはもう閉鎖済だし。

というより、インチキ歌舞伎町のセットまで作って撮影していたという、その熱意に脱帽。

東京の風景が徹底してバタ臭いのは、そういうのを狙って作っているからだろう。この映画の東京に、カッコよさなんて必要ない。

竹中直人の演じた「抗日映画に出てきそうな徹底的にインチキ臭い日本人」は見事。退場に仕方もインチキ悪役にお似合いの、無様なもので、そこも良かった。

ドニー・イェンは夫婦生活も仕事もなにもかも上手くいかず、そうこうしているうちにデブになる、というが前半のくだり。しかしラストの闘いを終えた後でも、ドニー・イェンは結局デブのままだった。その上ブルース・リーの「水になれ」という名言を、「型にはまらなくてもいい」という意味として引用しながら、デブである自分を肯定していた。デブになったきっかけは、人生でしくじったことだったが、デブである自分を否定することは決してしなかった、ということだ。

 

SFマガジン 2021年2月号

斜線堂有紀『回樹』

ギミックは「回樹」と呼ばれる、全長10キロ程度の巨大な人型の物体。顔はなく、体は薄青色をしている。秋田県のとある出現に突然出現した。どうやって出現したのかは不明。人間の死体を吸収する。愛する人の死体を吸収させると、その人は死んだ人の代わりにこの「回樹」を愛するようになる。言ってしまえば共同墓地のようなものだが、この性質のおかげで、共同墓地である以上の特別な意味を帯びることになる。また、愛していない人の死体を吸収させても、「回樹」を愛するようにはならない。

主人公は女性だが、とある女性と同棲していた。最初は単なる共同生活だったが、次第に愛情が芽生え、やがて倦怠期を迎える。一方は人工授精で子供は欲しいと言い、もう一方は愛情が冷めていたのでその意見にはためらいを覚えていた。ある時、子供が欲しいと言っていた女性の方が、交通事故で死んだ。もう一方の女性はその事故の知らせを受け、仕事が忙しい時にめんどくせー、と思いつつ、もう一方では恋人が死んだと言うのにそんなぞんざいな態度をとって良いはずがないと思っており、ある種のジレンマを抱えていた。そしてその女性は、相手の両親に無断で、事故死した女性の死体を「回樹」に吸収させることにした。動機は、自分がこの女性に愛情を持っているかどうか、答え合わせをしたかったからだ。結果について、彼女は曖昧に答える。が、女性の死体を「回樹」に吸収させた後に彼女は、ブログでこの「回帰」について書いて、それにより大量のPVを記録した。この行動こそ、彼女の「大樹」に対する愛情表現であり、それは同時に事故で失った女性に対する愛情の表れであると考えて間違いなかろう。

人工授精の話を聞いて、主人公の女性がためらった理由は「生まれる子が男の子だったらやだな」だと言う。これはなかなか共感できない感覚だと思うが、そうした共感できない、つかみどころのない感覚を持たせると言うのも、恋愛小説の1つのテクニックなのかもしれない。

愛情の答え合わせができる、と言うのは1つのファンタジーであると思うが、この小説の場合は、そういったファンタジーを美しく描いたのかもしれない。「百合特集」という企画にもふさわしいアイディアかもしれない。本人の感情は曖昧で不安定でいくつかのジレンマを抱えているが、そこに、感情の答え合わせと言うギミックを与えたのである。


木澤佐登志『さようなら、世界 第一回 精神史のジャンクヤードへ』

大雑把かつ乱暴であることを承知で、この連載の趣旨を述べると、まず未来や憧れるという行為は、かつての時代にはあったが現代では失われている。そのためこの現代で「未来への憧れ」を試みようとするなら、かつての時代を回帰して、そこから「未来への憧れ」を掬い上げると言う、回りくどい方法をとることになる。その方法の実践として、この連載では精神史の歴史を掘り起こして、そこから未来への憧れを救い上げようという試みである。多分こういうことだと思う。

第一回では、1908年にロシアの作家アレクサンドル・ボグダーノフが発表した『赤い星』というユートピア小説を取り上げる。簡単に言うと、火星に文明があり、そこでは共産主義の理想が実現していた、という話である。この本は単なるSF小説ではなく、預言書として書かれたものだろうと、この連載の作者は分析している。その理由はいくつか書かれているが、私が最も強烈な理由だと思ったものは、作者のボグダーノフは、この小説で書かれたことを実際に試そうとするために、自らの体を人体実験して、それが原因で死んだのである。この小説の中では、火星人たちがお互いの血液を交換し合うことで、個人が死んでも、集団として永遠に息継ぎ付けることができる、という集団社会を描いている。これを実現しようとするために血液交換の実験を作者自らが自分の体を使って行い、そして死亡したのだ。この小説が単なる空想では無いことを裏付けるエピソードだろう。何しろ自分の命までかけて小説の世界を現実の世界にしようとしたのだから。

2021年1月3日

田崎晴明『熱力学』

1章だけ読む。著者の、この本を書くにあたっての熱力学という理論の組み立て方から、熱力学という科学の位置づけ、および科学全般の考え方についてコンパクトに示されている。著者が言うには、熱力学のようなマクロモデルは、しばしば、量子力学のようなミクロモデルの近似であるという誤解を受けているが、著者の考えはそうではない。ニュートン力学も、熱力学も、量子力学も、すべてこの世界の何らかの側面を示している普遍的なものである。普遍的であるとは、それ自体が独立した理論を形作っていて、他の理論に依存しているようなものではない、ということである。それ自体が、現象を厳密に記述しているのである。また、普遍的な理論が様々あるといっても、それは科学というものに様々な種類があるということではない。様々な普遍的な構造が集まったものが、基礎科学なのである、と言っている。さらに著者は、ミクロな理論を出発点とせずに、マクロな理論から熱力学を作り上げている理由を3つ挙げている。1つは、ミクロな理論を出発点にしてしまうと、「マクロ理論による世界の記述」という熱力学の最大の特徴が失われてしまう。2つ目は、ミクロな理論も、結局はマクロな経験によって支えられているということ。3つ目は、「ミクロな理論から暴露を導出する」と言う試みは、まだ部分的にしか達成されてしないからである。また、さらに大胆に、こんなことも言っている。還元主義の考えに立つなら、私がこの本の中で行っている事は、ミクロからマクロを構成すると言うことを指定しているので、完全主義と相容れないところがあると思われるかもしれない。しかし、そうとは言い切れないと思う。まず、完全主義の主張とは「この世界を支配するミクロな基礎理論と、我々の住む宇宙の初期条件が与えられれば、原理的にはこの世界で生じるすべての現象を導き得る」ということである。ここで初期条件が、どの程度、私たちの住んでいる宇宙の現象に影響を与えているのかは何とも言えないが、ミクロ理論だけではこの初期条件を調べることはできない、とは言えるだろう。そして宇宙の初期条件とは、私たちの歴史の中で作られたマクロな理論の中に、書き込まれていると考える事はできるだろう。そう考えれば、物理現象の記述の基礎つけば、マクロとミクロの双方のアプローチがあると言う考えも、自然なことではないだろうか?

なかなかすごい。私自身、マクロモデルの意義は「現象の本質を大まかに捉えること」だと思っていた。この考えには暗に「マクロモデルはミクロモデルの近似である」と言う考えも含まれていた。しかしこの本の著者は、この「マクロモデル=ミクロモデルの近似」という考えをきっぱりと否定している。その上で、物理現象をマクロモデルで考える意義をはっきりと述べている。読んでいて、目から鱗が落ちるような感覚を覚えた。

 

全宅ツイ『不動産大技林』

アパート借りるとき、火災保険はたいていは賃貸管理会社のなすがままに決められてしまうものである。このとき、あくどい不動産屋は、聞いたこともないような謎の保険会社の保険に加入するよう誘導して、そこは保険料がめちゃくちゃ高いけど、その分管理会社へ手数料が落ちるというなアコギ仕組みで儲けているという(今もあるのかどうかは知らん)。この時、借主が「独占禁止法違反では?」と正論を言っても、管理会社から審査落ちをちらつかされるという技まで使われ、結局は借主が正論を行っても逃げられないのだと言う。なんともはや。やはり不動産に関しては、他の商売と比べて、サービスを受ける側の立場が圧倒的に弱い。

 

トニ・モリスン『青い瞳が欲しい」

全300ページくらいのうち、226ページまで読んだ。今月の読書会の課題本なので、どうせもう一回読むことになるから、感想はその時に書くことにする。

 

志賀浩二ルベーグ積分30講』

第8講まで読む。ユークリッド空間上を対象とするときは区間から測度を構成した。抽象的な空間を対象とする場合は、まずは測度が持つべき性質を規定し、その性質を持つものが測度であると定義する。まさに現代的、抽象的な数学の手法である。抽象的な集合の部分集合列の極限を、速度を通じて、実数の極限概念に落とし込むのである。つまりは数直線上の極限概念が鍵となる。測度を作ることで、直感が頼りにならないような対象にも面積概念を考えることができるのである。

2021年1月2日

日経ものづくり、2020年12月号

・樹脂を精密加工するだけでなく、その加工方法を「加工レシピ」として他社に売る、というサービスをやっている企業があるらしい。加工方法を教えてしまうのは、一見すると技術の漏洩と思えるが、このサービスを行っている企業の代表が言うには、「高精度の加工は、サイズや形状がほんの少し異なるだけで、加工の方法や条件はがらりと変わってしまう。だから1つの加工方法を教えたところで、技術が漏れたことにはならない」と言う。多分、マニュアルを1つを教えても、他の場合への応用はほぼ不可能だから、教えてしまっても構わない、という考え方なのだろう。

・製造業DX特集。新型コロナ以降、顧客の多様なニーズに応えるために、B to Cのビジネスでも、大量生産型から受注生産型が主流になる、という記事があったが、本当だかどうだかはだいぶ怪しいと思う。常識的には、同じものを同じやり方で作る大量生産型の方が、効率よくモノを製造できる。コロナを機に大量生産型ビジネスを手放すという話は、現実的ではないというか、ちょっと信じられない。

・便利すぎるExcelに縛られ、真剣に困らずEXが進まない」と言うタイトルの対談がある。中身を見なくても、タイトルだけでなんとなく事情の察せられるところがある。

・「受注生産型では、仕様をお客さんに決めてもらうというスタイルになるので、守りの設計になりがちである」と言う話は、確かにそうかもしれない。理想を言うなら、設計者が仕様を決めてそれをお客さんに見せるのが、設計者にとっても1番面白い仕事のやり方なんだろうけど。その分、設計者の責任が重くなる事は、言うまでもないが。設計者というより、受注者である企業の責任が重くなるというのが本当のところなんだけど。

2021年1月1日

ニール・スティーブンスン『七人のイヴ Ⅱ』を読了。

・不穏かつ静かに物事が動く1巻と比べ、はるかに盛り上がる。地球が不毛の地となってからが本番とでも言わんばかりに。

・ダイナは理想の脳筋クルー。ラストの「七人のイブの会議」でも、生き残った他のメンバーが蹇々諤々と議論している中で、ひとり宇宙船の外に出て、「あと10分で会議を終わらせないと、ここを爆発してやる」とでもいうような行動に出た。そして他のメンバーは、この行動を受けて、あっという間に結論を出して話にケリをつけてしまった。冷静に考えればダイナのこの行動は賢いとは言えない。それでも私はダイナのこの行動がすごく好き。それは、議論はするけど行動しない秀才よりも、行動するバカが道を切り開くこともあるという話でもある。

・ニール・スティーブンスンの他の作品は読んだことはないが、他の作品にも興味が出てきた。この作者の科学技術の見方・考え方には興味がある。「七人のイブ」を見る限り、理論よりも実践が道を切り開くという考えがこの人にありそう。