2021年1月4日

燃えよデブゴン TOKYO MISSION』観た。

最初っから最後まで爽快。カンフー映画を観たぜって実感が味わえる。

個人的に一番気に入ったアクションシーンが、築地市場ターレーに乗りながらのドニー・イェンのカンフーアクション。というより、ターレーとカンフーってこんなに相性いいのかよって思ったわ。

冒頭で、「この映画の東京タワーはCGで、実際とは異なります」という注意書きが出てきたが、実際と違う東京の風景はそこだけじゃねーぞ。歌舞伎町らしき街は実際の歌舞伎町じゃないし。築地市場が出てきたが、実際にはもう閉鎖済だし。

というより、インチキ歌舞伎町のセットまで作って撮影していたという、その熱意に脱帽。

東京の風景が徹底してバタ臭いのは、そういうのを狙って作っているからだろう。この映画の東京に、カッコよさなんて必要ない。

竹中直人の演じた「抗日映画に出てきそうな徹底的にインチキ臭い日本人」は見事。退場に仕方もインチキ悪役にお似合いの、無様なもので、そこも良かった。

ドニー・イェンは夫婦生活も仕事もなにもかも上手くいかず、そうこうしているうちにデブになる、というが前半のくだり。しかしラストの闘いを終えた後でも、ドニー・イェンは結局デブのままだった。その上ブルース・リーの「水になれ」という名言を、「型にはまらなくてもいい」という意味として引用しながら、デブである自分を肯定していた。デブになったきっかけは、人生でしくじったことだったが、デブである自分を否定することは決してしなかった、ということだ。

 

SFマガジン 2021年2月号

斜線堂有紀『回樹』

ギミックは「回樹」と呼ばれる、全長10キロ程度の巨大な人型の物体。顔はなく、体は薄青色をしている。秋田県のとある出現に突然出現した。どうやって出現したのかは不明。人間の死体を吸収する。愛する人の死体を吸収させると、その人は死んだ人の代わりにこの「回樹」を愛するようになる。言ってしまえば共同墓地のようなものだが、この性質のおかげで、共同墓地である以上の特別な意味を帯びることになる。また、愛していない人の死体を吸収させても、「回樹」を愛するようにはならない。

主人公は女性だが、とある女性と同棲していた。最初は単なる共同生活だったが、次第に愛情が芽生え、やがて倦怠期を迎える。一方は人工授精で子供は欲しいと言い、もう一方は愛情が冷めていたのでその意見にはためらいを覚えていた。ある時、子供が欲しいと言っていた女性の方が、交通事故で死んだ。もう一方の女性はその事故の知らせを受け、仕事が忙しい時にめんどくせー、と思いつつ、もう一方では恋人が死んだと言うのにそんなぞんざいな態度をとって良いはずがないと思っており、ある種のジレンマを抱えていた。そしてその女性は、相手の両親に無断で、事故死した女性の死体を「回樹」に吸収させることにした。動機は、自分がこの女性に愛情を持っているかどうか、答え合わせをしたかったからだ。結果について、彼女は曖昧に答える。が、女性の死体を「回樹」に吸収させた後に彼女は、ブログでこの「回帰」について書いて、それにより大量のPVを記録した。この行動こそ、彼女の「大樹」に対する愛情表現であり、それは同時に事故で失った女性に対する愛情の表れであると考えて間違いなかろう。

人工授精の話を聞いて、主人公の女性がためらった理由は「生まれる子が男の子だったらやだな」だと言う。これはなかなか共感できない感覚だと思うが、そうした共感できない、つかみどころのない感覚を持たせると言うのも、恋愛小説の1つのテクニックなのかもしれない。

愛情の答え合わせができる、と言うのは1つのファンタジーであると思うが、この小説の場合は、そういったファンタジーを美しく描いたのかもしれない。「百合特集」という企画にもふさわしいアイディアかもしれない。本人の感情は曖昧で不安定でいくつかのジレンマを抱えているが、そこに、感情の答え合わせと言うギミックを与えたのである。


木澤佐登志『さようなら、世界 第一回 精神史のジャンクヤードへ』

大雑把かつ乱暴であることを承知で、この連載の趣旨を述べると、まず未来や憧れるという行為は、かつての時代にはあったが現代では失われている。そのためこの現代で「未来への憧れ」を試みようとするなら、かつての時代を回帰して、そこから「未来への憧れ」を掬い上げると言う、回りくどい方法をとることになる。その方法の実践として、この連載では精神史の歴史を掘り起こして、そこから未来への憧れを救い上げようという試みである。多分こういうことだと思う。

第一回では、1908年にロシアの作家アレクサンドル・ボグダーノフが発表した『赤い星』というユートピア小説を取り上げる。簡単に言うと、火星に文明があり、そこでは共産主義の理想が実現していた、という話である。この本は単なるSF小説ではなく、預言書として書かれたものだろうと、この連載の作者は分析している。その理由はいくつか書かれているが、私が最も強烈な理由だと思ったものは、作者のボグダーノフは、この小説で書かれたことを実際に試そうとするために、自らの体を人体実験して、それが原因で死んだのである。この小説の中では、火星人たちがお互いの血液を交換し合うことで、個人が死んでも、集団として永遠に息継ぎ付けることができる、という集団社会を描いている。これを実現しようとするために血液交換の実験を作者自らが自分の体を使って行い、そして死亡したのだ。この小説が単なる空想では無いことを裏付けるエピソードだろう。何しろ自分の命までかけて小説の世界を現実の世界にしようとしたのだから。