2021年1月10日

トニ・モリスン『青い眼がほしい』

読書会メモ。

・黒人差別について

黒人のコミュニティー内のお互いの足の引っ張り合いがえぐい。

Black Lives Matterのような「対立」という話ではない。悲しみの話である。

ピコーラがキャンディーを買うシーンで、白人の店員がピコーラを軽蔑しているような様子のシーンがあるが、おそらく、白人の店員本人からすれば差別をしているつもりはないと思う。この辺に、差別とは何かと考えるに当たって難しい問題があると思う。差別とは個人がやるのではなく社会全体の空気が作るものかもしれない。

気づかないフリをしてやっている差別と言うものがないだろうか?この作品には「知らないフリをするな」というメッセージが埋め込まれている。

・美の基準について

他者や社会から美しさの基準を押し付けられるという、女性なら誰もが経験する普遍的なテーマである

ピコーラが社会で考えられている人を基準に従おうとするのは、仕方のないことだと思う。

江戸時代の浮世絵では、美人は細い目をしている。しかし現代社会ではパッチリ目のほうがかわいいとみられている。つまり私たちも西洋の人の価値に刷り込まれているのではないだろうか?

・冒頭のシーンについて

冒頭で、緑と白の家で暮らす家族の話がある。最初は普通の文章で、その次に同じ話が句読点抜きで書かれていて、さらにその次にはまた同じ話が今度は全てひらがなで書かれている。これは一体何を表しているのか?という議論が起こった。おそらくこの話は、アメリカの白人の中産階級の生活の様子で、学校の教科書で出てくる話である。アメリカの世界では暗黙のうちに、この文章で書かれた生活が「普通の生活」とみなされているが、この小説で出てくるような黒人にとっては、ここで描かれている生活は「普通の生活」でも何でもない。社会が決めた「普通の生活」のスタンダードを押し付けられているという表れかもしれない。文章から句読点が消えて、さらに全てひらがなになるのは、言葉が崩壊しているということで統合失調症の過程と見ることもできないだろうか?

・その他

アメリカ文学専攻の女学生に聞くと、この作品がアメリカ文学専攻するきっかけになった人が多いと言う。

原題は”The bluest eye”。eyesではなくeyeと単数形になっているのは何故か?ひょっとしたら、eye(眼)とI(私)をかけているのではないだろうか。

チョリーがピコーラを犯す人が、すごく淡々としているのが怖い。

 

配管技術 2021.1

小規模な生産設備でアンモニアを製造する技術について紹介している記事がある。通常のアンモニアの製造法のハーバー・ブッシュ法では、高温高圧の反応条件が必要であり、製造のための設備も大型になり、どうしても高額化してしまう。そこで、エレクトライド触媒と呼ばれるものを用いて、小規模かつ低温低圧の反応でアンモニアを製造する技術を開発している。小規模なプラントでアンモニアを製造できるようになれば、必要な場所に必要なだけ小型のプラントを分散させて製造できるため、アンモニアの貯蔵コストや輸送コストを削減できる。また、アンモニア製造プラントを有していない小さな国でも、この製造技術を使えばアンモニアプラントを低コストで設置できることが期待できる。アンモニアの用途としては、農業用の肥料や、発酵によりアミノ酸を生産するための原料にも使われる。アミノ酸を生産する工場は内陸地にあることが多く、一方でアンモニアを輸入する時は海岸地域から受け入れるため、輸送コストがかなりかかる。この地域で提案する小規模のプラントで工場近くに製造設備を設置すれば、それだけアンモニアの輸送コストを削減することができる。また、低炭素社会を目指した水素キャリアにもアンモニアを活用できる。火力発電所やゴミ焼却炉で発生する窒素酸化物を除去するためにアンモニアを使用するという用途もある。